シベリア孤児
ちょっといい話
佐藤光浩氏著より
第一次世界大戦が終わった翌年、1919年にポーランドはソビエトから独立しました。
しかし、シベリア極東地域には反乱を起こして捕まった政治犯の家族や、混乱を逃れて東へ逃走した難民など、10万人を越えるポーランド人が、独立した祖国に帰れず、取り残されていました。
彼らは、自分たちは死んでもいいから、何とか子どもだけでもポーランドに帰してあげたいと願い「ポーランド救済委員会」を組織。
子どもたちの輸送の援助をアメリカやヨーロッパ諸国に要請します。
しかし、独立したばかりの、しかも公的な組織でもない委員会の声を受け入れてくれる国はありませんでした。
1920年、彼らは最後の手段として、これまでに交流もなく、民族も違うものの、ウラジオストクに近い場所にあるということで、日本に救済を要請します。
そして日本政府は、要請を受けてからわずか17日後、シベリア孤兄たちを救うことを決断しました。
まだお互いに大使館もない国の、しかも民間組織の要請をすぐさま受け入れたのは、人道的な理由に他なりません。
決定から2週間後、シベリア孤児の第1陣が陸軍の輸送船で日本に到着しました。
それから何回にも渡ってシベリア孤児は日本に送られ、その数は765人にもなります。
また、言葉も違う土地に子どもたちだけではかわいそうと、65人の大人も呼ばれました。
この出来事は当時のマスコミを賑わせます。
そして、全国から寄付金が殺到、多くのボランティアもかけつけました。
日本に来たときには、伝染病や飢餓に苦しんでいた子どもたちも、アメリカ経由で祖国に帰っていくときには、すっかり元気を取り戻していたといいます。
それから70年以上の月日が流れた1996年の夏休み、前年の阪神・淡路大震災で孤児になった、日本の小・中学生がポーランドに招かれ、手厚い歓迎を受けました。
それはもちろん、シベリア孤児を助けてくれた日本に対する、恩返しだということです。
あなたは悔いのない人生を過ごしてきましたか?!
「旅立つ日」
必ず明日を迎えることを約束された人は、この世に誰一人いません
今、出来ることを大切にしまよう!
あなたが虚しく過ごした今日という日は
昨日亡くなった方が、あれほど生きたいと願った明日
一度きりの人生
何かやり忘れていることはありませんか?
子供の頃に描いていた夢は今はどうなっていますか?
諦めきれない夢はありませんか?
夢に向かって!
最後まで読んで頂きましてありがとうございます。