南蔵院 林住職のいい話 「 打坂の悲劇 」
昭和24年
長崎自動車の木炭バスが37名の乗客をのせ打坂と呼ばれている坂を登っている途中、頂上まであと数メートルというところで、突然エンジンが止まってしまいます。
運転者がブレーキを踏んで、エンジンをかけ直おそうとしたら、ブレーキが効きませんでした。
それで補助ブレーキをかけようとしたけど、補助ブレーキも効きません。
ギアを前進にして止めようと思ったけれども、ギアが入らず、バスはずるずると後退を始めます。
当時の打坂は急勾配で片側は10メートル以上の深い崖がひかえ、運転者仲間に"地獄坂"と恐れられていた坂でした。
運転手さんは車掌として乗っていた当時22歳の鬼塚氏に
「鬼塚、飛び降りろ!そして、石や木をタイヤに挟んで車を止めろ」
と叫びます。
鬼塚車掌はすぐにバスを飛び降り、道わきの大きな石を車輪の下に入れますが、加速がついていたバスは石をはねのけて止まりません。
バスの乗客は、ほとんどが原爆症の治療に行くお年寄りやお子さんでした。
当時は戦争のために鉄はすべて集められ、ガードレールはありませんでした。
崖から落ちれば全員即死。
断崖絶壁の崖まであと4~5mのところでバスは奇跡的に止まりました。
運転手さんは放心状態のお客さんを外に出し近くの草原に座らせます。
その時、車掌さんの鬼塚さんが居ないことに気づきます。
まだ、石や木を探しているのかなと思って探し始めた時にビックリします。
鬼塚車掌は後部車輪の下に飛び込こんで、
自らの体を輪止めにしてバスを止めたのでした。
バスの乗客が力を合わせて鬼塚さんを引き出しました。
けれども、内臓破裂で即死でした。
戸板に載せられて運ばれる鬼塚さんを見た乗客の人々は
「きっと、この人は我々を救うが為に世の中に生を受けた
仏様か菩薩様の生まれ変わりじゃないか」
感激しました。
戦後の混乱期、この事件は人々の記憶から薄れてしまいましたが、事故から24年後の昭和48年に、このことが毎日新聞の記事に載ります。
たまたまこの新聞を見ていた長崎自動車の社長さんが緊急の役員会議を開き、その日のうちに記念碑とお地蔵さんを設置することが決まりました。
それ以来、毎年欠かさず鬼塚さんの供養蔡が行われているそうです。
あなたが虚しく過ごした今日という日は
昨日亡くなった方が、あれほど生きたいと願った明日
あなたは悔いのない人生を過ごしてきましたか?!
「旅立つ日」
必ず明日を迎えることを約束された人は、この世に誰一人いません
今、出来ることを大切にしまよう!
一度きりの人生
何かやり忘れていることはありませんか?
子供の頃に描いていた夢は今はどうなっていますか?
諦めきれない夢はありませんか?
夢に向かって!
最後まで読んで頂きましてありがとうございます。